生産性を上げるためにはIT投資が必要なのに、日本ではIT投資をしても生産性が上がらない。この謎を解く鍵は江戸時代にあるのではないか。

生産性の低すぎる日本社会

デービッド・アトキンソン著『新・所得倍増論』を読んだ。日本社会は世界トップクラスの質の労働者を抱えながら、「一人当たりGDP」や「時間当たり生産性」 において極めて低い水準にあるという。その結果、先進国で最も貧しい国になっている。(いずれもデータに基づく議論なので、関心のある人は本を読んで確認してほしい。)

そのような現状分析からの政策提言として、「政府がGPIF(公的年金ファンド)を通じて上場企業に『時価総額を上げろ』というプレッシャーをかけるべきだ」と書かれている。

曰く、日本の上場企業経営者は、国際水準ではまったくの無能であり、利益を出せていない(「3時に閉まる銀行」という例が何度も登場する)、無能な経営者を交代させることでしか生産性の向上はない、女性の活躍もないという論旨だ。

同様の提言は他の識者からもなされている。藤野英人著『ヤンキーの虎』では「5年平均でROEが5%を下回ったら経営者をクビにしろ」と。また、冨山和彦著『なぜローカル経済から日本は甦るのか』では両者を合わせたような提言、つまり「GPIFはROE 5%未満企業から金を引きあげろ」と。実に正論であり、実現されるべきだ。

しかし、生産性低迷の責任は経営者だけにあるわけではなく、労働者の責任も大きい。これはアトキンソン氏の『新・所得倍増論』で指摘されていない点だ。私は與那覇潤著『中国化する日本』を使ってそれを説明しようと思う。

IT投資が生産性向上につながらない日本社会

『新・所得倍増論』でも紹介されているニューヨーク連銀の調査によれば、アメリカでは生産性上昇率の半分以上がITによるものだった(1995〜2001年)。生産性向上にはIT投資が極めて有効なのだ。そして、じつは日本のIT投資比率も決して低くない。ではなぜ日本人の生産性は上がらないのか。

IT投資を通じて生産性を向上するには、ITを人の働き方に合わせるのではなく、人の働き方をITに合わせて変える必要がある。これができないので、日本ではIT投資が生産性の向上に帰結しないということだ。

日本企業ではパッケージやSaaSといった既製品の導入が進まず、フルオーダーメイドのシステム開発ばかりやっている。フルオーダーメイドになる理由は、IT導入以前の「人の働き方」に合わせてシステムを作ろうとするからだ。それでは生産性は上がらない。

『中国化する日本』風に言えば、日本の労働者は「業務プロセスのドラスティックな変革」に対する「拒否権プレイヤー」なのだ。「仕事のやり方を変えなくていいなら、システムを導入してもいいですよ」「仕事のやり方を変えようとするなら、そんなシステムは使いませんよ」と。それではシステムを導入する効果がない。このようなサボタージュ(生産設備の破壊行為)を「IT百姓一揆」と呼ぶことにする。

一期のイラスト

業務プロセスのドラスティックな変革を妨げる「拒否権プレイヤー」のせいで、日本のIT投資には最初から「失敗」という選択肢しか与えられていない。最も有効な「IT投資」という手段で生産性を上げられない以上、日本企業・日本経済の生産性は上がりようがない。百姓一揆によって「IT革命」を潰してきた日本社会は、いわば「アンチIT革命」の社会なのだ。1

終わらない江戸時代

この問題については、単に「無能な経営者の責任」あるいは「保守的な労働者の責任」というよりも、むしろ「江戸時代的な日本人のエートス」に原因があると見るべきだ。日本人経営者と日本人労働者の双方が結託して現状のシステムを維持しているのだから、システム思考的に言えば、「単独の犯人が存在するわけではなく、犯人探しをしても意味がない」「問題を解決するためには、システム全体の構造やパラダイムを変えなければならない」ということだ。「ダメな経営者をクビにする」「ダメな労働者をクビにする」いずれも解決策にならない。中の人を入れ替えたところで、システムが変わらなければ同じことが繰り返されるだけなのであって、意味がない。

江戸時代的エートスとは何か。「あなたに与えられた居場所(正社員という身分、家職)で立派に勤め上げたら、老後も社会(会社とクニ)が面倒みてあげましょう」「勤勉に働く限り、あなたの居場所は守りましょう」という江戸時代から続く労使の「社会契約」に基づく人々のコモンセンス、それが「江戸時代的エートス」だ。江戸時代的な社会契約が存続する限り、江戸時代的なエートスは温存され、労働者の拒否権は強いままで、IT投資も成功しない。ゆえに日本人の生産性は上がらない。

業務プロセスのドラスティックな変革は、人員の配置転換や整理解雇を伴うことがある。しかし、このような「痛みを伴う改革」は、現代日本の「百姓」にとっては、「与えられた居場所で一生懸命やっていれば、末代まで安定して食わしてくれるという約束じゃなかったのか」という「社会契約違反」として受け止められる。そして拒否権が行使される。つまり、「導入されたシステムを使わない」というサボタージュとしての「IT百姓一揆」が起こる。結果的に生産性は上がらず、労使共倒れになる。これがいま日本で起こっていることだ。 2

このことは、すでに2004年の内閣府「世界経済の潮流」で指摘されていた。曰く、IT投資が生産性向上に結実するためには、競争的な市場環境(への規制緩和や構造改革)と流動性の高い労働市場が必要である、と。政府は「IT革命」初期の段階で、すでに問題を認識していた。上手くやれば世界的な「IT革命」の波に乗り遅れず、日本の国際競争力も維持できたはずだった。しかし、問題の所在が分かっていたにも関わらず、失敗したわけである。このことは、総力戦研究所が「日米戦は日本必敗」の結論を出していたにも関わらず、開戦へと突き進んだ大日本帝国の失敗(猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』)を彷彿とさせる。

この先生き延びるために

労使共に生き延びるためには、日本的な労使の「社会契約」を更新しなければならない。「居場所を一生保証してやるから滅私奉公せよ」という江戸時代的で硬直的な身分契約から、「会社が儲かっていて、あなたが会社に貢献していれば、あなたの居場所はある。しかし、会社が儲からなくなったり、あなたが会社に貢献しなくなったら、あなたの居場所もなくなる」という流動的で近代的な雇用契約へと。

簡単に言えば、IT投資を通じて事業を(文字通り)「リストラクチャリング」(構造改革)できる社会にするということだ。もちろん人員の配置転換や整理解雇を伴う場合もあるのだと覚悟しなければならない。これによって「IT百姓一揆」という拒否権が発動されない社会システムになれば、日本社会でもIT投資を通じて生産性を上げることができるようになり、労働者の賃金も上がる。「国民一人当たりの所得の増加」も実現しうる。 3

これは単に「労働者の首を切りやすくする」「経営の不始末を労働者に押し付けやすくする」といった話ではない。 江戸時代的な社会契約は、これまで経営者にとっても安定した「支持基盤」を提供してきた。しかし、これから社会が流動的になっていけば、経営者にとって社内向けの説明責任も増すし、内部告発も増える。要するに、経営者と労働者の間に、これまでにない緊張関係が生まれる。もちろん経営者は株主からクビを切られやすくもなる。経営者にとっても「古き良き江戸時代」は終わらざるを得ないということだ。

これからは否応無く日本社会でも資本と労働の流動性は高まっていく。いわゆるグローバル化、いや、「中国化」していく。その変化に適応しなければならない。労使共に「流動的な社会で生き延びる術」を身につけなければならない。これは「日本人のエートスを変える」という大事業であり、決して容易ではない。しかし、どんなに困難であっても、先進国で最も貧困に苦しむ日本の活路は、そこにしかない。4


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  1. 日本が「アンチIT革命」の社会であるということを、より広い視野から考えてみたい。かつての百姓一揆は、政権打倒を目的とした革命闘争ではなく、現政権への待遇改善を求める「労働争議」であったという。そもそも日本の百姓は革命しようとしなかった。つまり武士階級に成り代わって「百姓の国」を作ろうとはしなかった。そんな革命運動は日本には存在しなかったのだ。
    一方、ロシア革命により建国されたプロレタリア独裁国家がソ連だ。指導者レーニンは「共産主義とは、ソビエト権力プラス全土の電化である」と言った。簡単にいえば、「労働者の国」のスローガンは「オール電化」だったわけである。プロパガンダのために作られた「電化を進めよ」という短編アニメーション映画は見ものだ。革命思想には技術礼賛も含まれていた。
    この両者を対置したい。情報技術(IT)の導入による生産性向上をサボタージュによって否定する日本のIT百姓一揆。電化による生産性向上を目指したロシア革命。この対比が照らし出すのは、百姓的エートスが「反革命的」であると同時に「反技術的」でもあるということだ。技術が進歩すれば人は新しいやり方を覚えないといけなくなるが、百姓はそのような変化を嫌う。日本社会が「アンチIT革命」なのも当然だ。IT革命と百姓的エートスの相性は最悪なのだから。
    ロシアの革命運動は、解放された農奴を革命に動員し(ナロードニキ運動)、帝国を打倒した。日本の倒幕運動は、下級武士階級の次男・三男らの鬱憤が爆発したものであり、百姓には関係なかった。この違いは大きい。日本では百姓が政権を打倒することはなかった。革命はなかった。百姓の時代も終わらなかった。 

  2. 日本では正社員の解雇規制が極めて強く、それによって正規・非正規の労働者間の格差が固定化している。これはいわば現代の身分制であり、じつに江戸時代的だ。百姓(正社員)の居場所は保証されている。しかし、士農工商(四民)に属さない自由民(非正規労働者)の居場所は保証されていない。また、身分の保証を得ること(正社員になること)も困難である。まさに固定化された身分制度である。正規社員の解雇規制緩和論には賛否両論あるが、いずれにせよ日本において正規雇用の解雇規制がかなり強いということは多くの専門家が認めていることだ。このような身分格差の問題については、OECDが日本に対して是正勧告もしている。つまり国際社会からも批判されている。 

  3. 構造改革の意義について、改めて簡単に整理しておきたい。企業ごとの事業構造改革が進めば、結果的に、より生産性の高い産業へと労働者が移動していくことになるだろう。不採算企業の首切りというより、成長企業の積極採用によって。各々の労働者が、より良い労働条件を求めた結果として。また、業務のシステム化が進めば、経営状態がより可視化されていくことになり、結果として企業の統合(M&A)も進むだろう。つまり、個々の企業で事業構造改革が進むことで、産業の構造改革にもつながっていくと考えられる。最終的にはGDPの向上にも寄与するだろう。 

  4. ところで、私自身はセルフマネジメントテクノロジーZaというプロジェクトに取り組んでいる。これは企業内に個人単位での競争原理を持ち込むシステムである。企業の社員という安定した身分を保証しつつ、業務と人の密結合を解消する。「社内転職」や「社内副業」をしやすい会社にする。それによって、IT百姓一揆が起こらない組織にする。企業はIT化による資源の再配置をしやすくなり、外部環境に適応しやすくなる。企業の寿命は伸び、社員は長く同じ会社で働ける。
    あるいは、個々の労働者の働き(付加価値)が定量的に可視化されることで、労働者は自身の能力に自信を持て、転職への恐れが減る。特定の会社に飼い殺される社畜から、どこでも働けるビジネス・パーソンへの変態が進む。労働流動性の向上は、脆弱で不安定な労働者が増えるという形で進むのではいけない。雇用者と対等に交渉して労働契約を結べる、主体的で自立した労働者が増えるという形が望ましい。その方向に進めば、生産性の低すぎる企業や、労働環境が劣悪すぎる企業は淘汰されていく。全体として、働きやすく生産性の高い企業の割合が増えていく。日本人一人当たりの経済的豊かさも増えていくし、仕事に関する不幸も減っていく。
    とまあ、夢物語のようだが、理想を語るときに小さなことを言っても仕方がない。一方で、実際にはリアリズムに立脚しなければならない。どんな会社でもこのシステムを導入すれば簡単に上手くいく、などと思っているはずもない。大事なのはシステムではなく、その運用である。ゆえにシステムの提供と合わせてハンズオンのコンサルティングも必要だと思っている。いずれにせよ、「企業の寿命が伸び、社員が同じ会社で長く働ける」という理想に近付くために有効な方法だと思う。少なくとも、ゼロベース株式会社では長年に渡って成功している。私自身はこのシステムの可能性を確信している。