日本の知的風土では概念が脆くなる

on 2013-09-29 (3 years ago) by 石橋秀仁

三種の神器

日本にやってきた概念は、本来の意味を喪失し、ほかの言葉と区別がつかなくなりがちです。例えば、ウェブ業界では「UX」と「UI」の混同が代表的です。

こういった日本の知的環境について、『日本のかたち』収録論文が明晰に論じていました。その要約は次のようになります:

  • 神聖なるものを映し出すべき神鏡が錆びている。歪んだ像を見せる。「神聖なるもの」が元のかたちをとどめることがない。
  • 楷書、行書、草書から平仮名へ至る漢字書体の変化は、神鏡のようだ。漢字が論理的なのに対し、仮名は情緒的で、日本人の言葉にふさわしい。日本にふさわしいかたちに変わった。
  • 日本のかたちは、とどまらず、うつろい、消えてゆく。君が代で謳われる「巌」は、しかし苔むす「変わり得る巌」であって、国体すら変わり得るのだ。その柔軟さこそ日本のかたちなのだ。

日本という国は、舶来の概念をなんでも受け入れます。その際に、どんなに強固な概念であっても、すっかり日本風になるまで融解してしまいます。ほかの概念と区別がつかなくなる。「ワークショップ」と「レクチャー」の区別がなくなり、「ユーザー・エクスペリエンス」も「ユーザー・インターフェイス」と区別できなくなる。これが日本の知的伝統です。

日本の国土が、日本人をそういう思考様式にしたのです。建物を建てても地震で壊れる。台風や津波もやってくる。火山も噴火する。ものも腐るし、鉄も錆びる。

日本では概念が脆い。この知的伝統は、日本の国土条件から決定された「知的風土」とも呼べます。日本の国土環境から日本人は万年単位で影響を受け続けてきているわけですから、遺伝子にも影響しているでしょう。もはや変えられない条件として受け入れるしかない。

あらゆる概念を脆く変えてしまう特質こそ、日本において唯一変えられないものなのです。じつに皮肉な話です。

私は日本のこういう知的風土が嫌いです。知識や概念を重んじないから。でも仕方ない。それが日本なのだから。これを前提として、どうするか。それが前向きな思考というものです。

ある種の試みについては「日本では実現不可能である」という諦念も必要かもしれません。