ソーシャルメディアとプライバシーとお互い様の精神 〈無情社会〉を避けるために

on 2012-02-11 (5 years ago) by 石橋秀仁

SIPS:生活者消費行動モデル

先日電通から発表(PDF)された、「来るべきソーシャルメディア時代の新しい生活者消費行動モデル概念」としての「SIPSモデル」は、ソーシャルウェブ時代のマーケティングを考える上で便利な道具だ。次のように解説されている:

共感する : Sympathize → 確認する : Identify → 参加する : Participate → 共有・拡散する : Share&Spread

そのときの「確認」(Identify)行動は、機能や価格などの客観的・相対的な比較・検討よりも、より主観的かつ感情的である。
なぜならSIPSモデルは、ソーシャルメディア上の「共感」という主観的かつ感情的な出発点を持っているからである。また、友人・知人の「好み」という主観もそこに入り込んでいるからである。

また、であるだけに、「確認」の結果、何らかの不正やウソが発覚してしまうと、もともと「共感」を持っていただけに反動が大きくなる。
これは企業・商品イメージが大きく損なう危険性を秘めている。ソーシャルメディア時代、企業は常に透明性を保ち、不正やウソのない誠意あるコミュニケーションを生活者としていかなければならない(※引用註:強調は筆者による)。生活者の「確認」に耐えうる価値を提供するために、企業はブランドの開発からコミュニケーションまでトータルに設計することが重要になってくるだろう。

この指摘には同感だ。結局は「いくら粉飾してもバレるし、バレたら致命的だ」ということ。「何をしていると言うか」(広告・広報)よりも、「実際に何をしているか」(活動)が問われる。ソーシャルウェブ利用者なら、実感に合うのではないだろうか。私はこの文章を読んで、次の言葉を思い出した。Facebook上で採用活動に取り組む人の言葉だ:

マイクロソフトのエンターテインメント&デバイス部門の人材コミュニティの伝道師と呼ばれるマービン・ スミス氏は次のように説明している。

「大学生と効果的なコミュニケーションを図る目的で、学生が利用している社会的なプラットフォームで学生を取り込むのは、至って自然な方法だ。この方法は新卒担当リクルーターに、当社のブランド・メッセージを学生ユーザーのトップオブマインドとして維持するため、学習し、革新することを強要する。たとえば学生ユーザーがフェイスブックを利用するなら、我々はフェイスブック戦略を考案し、このプラットフォームで当社のメッセージが読まれるようにしなければならない。しかも単にフェイスブックで読まれるだけでなく、フェイスブックの学生ユーザーが共鳴し、価値を見出すようなメッセージでなければならない」と。

フェイスブックのマイクロソフト・ ページには、学生を対象とした動画へのリンクが掲載されている。動画の1つは若い従業員たちの「パズル・ デイ」で、複数のチームが楽しいパズルを解くという課題にチャレンジしている様子を撮影したものだ。これはまさにマイクロソフトが望む人材を対象として焦点を絞ったものである。難しいパズルを解くことを楽しめない人材はマイクロソフトが採用したい人材ではないのである。

しかし、マイクロソフトほどインターネット界における存在が大きくなると、自社のイメージを完全にコントロールするのは困難である。オンライン上のマスコミの情報もイメージを左右するものの1つだが、それ以上に重要なのは、インターネットにより現従業員や元従業員とコンタクトを簡単にとれるようになったことである。実際の就労状況を知るために、自分のネットワークを駆使して従業員から話を聞ける気の利いた学生はいる。このままインターネットが世界の透明度を上げていけば、 素晴らしいコンテンツを作るだけでなく、組織は純粋にいい職場でなければならなくなるだろう。(※引用註:強調は筆者による)

Works No.102 新卒選考ルネサンス 習慣化した採用選考手法を打破せよ
新卒採用をルーチン活動だと見なす組織は よりよい方法を模索する組織に人材獲得競争で負ける p.28-29

慧眼だ。透明な世界で粉飾は通用しない。「透明(transparent)」とは「本質を覆い隠す虚飾が取り払われた状態」を表す言葉だ。

透明で無情な社会

しかし、世界の「透明化」には好ましくない面もある。企業・ブランドが信頼に値するか厳しく確認(identify)する人々が増えることで、確認される側には一層の同一性(identity)が求められる。人々の期待を裏切らないように同一性を保つのは、けっこう疲れることだ(と同時に生き甲斐、やりがいにもなるのだが)。

「確認(identify)」されるのは、企業とは限らない点にも留意して頂きたい。個人も「確認」される。例えば「就職活動」について考えてみよう。実名ソーシャルウェブを活用して就職活動(いわゆる「ソー活」)する学生は増えていくだろう。彼らは自分を「商品」として企業に売り込む。つまり「売り手」として企業から「確認」される立場にある。

では、「透明」な世界で何が起こるのか考察しよう。クォンタムアイディ前田邦宏氏は、Facebookについて言及するなかで次のような問題を指摘している:

前田:そもそも、普及している米国ですら、本当に彼らの文化に合っているといえるのか。ソーシャルグラフのデータを元にマネタイズしていこうとするFacebookのビジネスは、ある意味「名簿業者」と近い部分すらある。従来型の名簿業者よりはるかに詳細なデータを同社が独占的に保持し、しかも登録されている本人が「自分について何が記録されているのか」を取り出すのが容易ではないのが現状です。この点については、米国の専門家の間にも問題視する声は強く、公開圧力は今後高まるでしょう(※引用註:悪玉ユーザーエクスペリエンスとアーキテクチャ支配の不可視性も参考に)。ザッカーバーグの思想は「すべてを透明化することで世界はより良くなる」というものですが、これはやや無邪気に過ぎる。いろいろな問題がこれから浮上してくると思います。

――いろいろな問題とは、例えば?

前田:内容はかなりの部分がフィクションらしいですが、映画「ソーシャル・ネットワーク」の中にも象徴的な出来事が描かれています。ザッカーバーグは彼女に振られたことにカッとなり、その彼女の学歴や下着のサイズまで公開してしまい、仲間内からつまはじきに合う。こういった若いときの過ちが、ずっと残ってしまうのが実名ソーシャルグラフです。(※引用註:強調は筆者による)

日本人は「透明なFacebook」に耐えられるのか? - トレンド - 日経トレンディネット

また、米国OpenID Foundation理事長の崎村夏彦氏は〈無情社会〉というキーワードで、徹底的な「名寄せ」(identify)が行われる社会の危険性を指摘している:

人は忘却する動物。それが許しにつながる。人はそれを前提に行動する。だがインターネットは忘れない。「ああ無情」のジャヴェル警視のように忘れない人を非情といい,その被害を無情という。インターネットへの,「汎用不変番号」に代表される識別子の不注意な導入・利用はインターネットを誰でもジャヴェル化する。そして,そこに現れるのは,「無情社会」なのである。

無情社会と番号制度~ビクトル・ユーゴー「ああ無情」に見る名寄せの危険性

※註:同氏の『国民 ID 制度とトラスト・フレームワーク〜インターネット・アイデンティティとプライバシー保護の観点から』も素晴らしい。

世界がどんどん透明になり、より一層の同一性が求められるようになっていくとすれば、我々はより一貫して他者の期待・同一性認識(他認)に応えるよう振る舞わざるをえない。だが、他認はときに自分自身の自己同一性認識(自認)とかけ離れてくるかもしれない。それは引き裂かれるような感覚だろう。例えば、自分が立派な人間でありたいと思っていても、若いときの過ちが記憶され続けるのだとすれば。

これは不自由なことだ。西欧近代社会のように「個人が自律した社会」になる過程では避けられないことなのかもしれない。だが、日本は西欧ではない。西欧では、個人が自律した社会になった後で、実名ソーシャルウェブが普及した。日本では、個人が自律した社会になる前に、実名ソーシャルウェブが普及している。この違いは大きい。日本は独自に〈無情社会〉を避けるべく模索しなければならない。この議論はそのためにある。

〈無情社会〉を見越した個人の自衛手段としては、複数の同一性(identity)を使い分けることが上げられる。ウェブ上では匿名で複数のアカウント(ID)を使い分けることが比較的容易だ。

ウェブ上で実名の活動をするなら、不可逆な一歩を踏み出す覚悟をしたほうがいい。実名の活動は、半永久的にウェブ上にアーカイブ(保管)され、検索エンジンにインデックス(索引付け)されるので、容易に確認・同定(※)されてしまう。「若いときの過ちが、ずっと残ってしまう」のだ。
※同定(identify):同一であると見極めること。ある情報と、その発信者を紐づけること。名寄せ。SIPSモデルの「確認する」(Identify)と同じ英単語。

一貫性・誠実さ(integrity)の要求

ここで同一性(identity)という概念について考察しておきたい。他人から見た同一性(identity)とは、外見・振る舞い・言葉遣い・名前などの各種属性によって、「〈その人〉を〈その人〉だと一貫して同定(identify)できる性質」のことだ。他者による私についての同一性認識(同一性の他認)を成しているのは、「石橋秀仁はこういう人物だ」という記憶と期待だ。期待を裏切らない一貫性(integrity)によって、同一性(identity)の他認は維持される
※英単語"integrity"には「完全無欠・一貫性」という意味と、「正直・高潔・誠実」という意味がある。

したがって、その「期待」に沿わない行為(言い換えれば、一貫しない行為)は、同一性の他認を混乱させる。例えば、社会的に男性として今日まで過ごしてきた私が、明日からいきなり女装してオネエ言葉で生活し始めたら、私を知る人々は同一性の認識に混乱を生じる。「昨日までと同一の石橋秀仁という人物」と認識できなくなるためだ。同一性が混乱し、まるで別人のように感じられる。
※余談だが、筆者は2010年に事務所と自宅を新宿二丁目に移した。それ以降、性自認の問題に強い関心を持つようになった。

自認と他認のフィードバック(相互作用)

プリンスというアーティストを知っているだろうか。彼は、アーティストとして、個人として、いろいろな面での同一性に苦しんでいる人ではないだろうか。「他人は自分をどういう人間だと思っているか」という「他認」と、「自分は自分をどういう人間だと思っているか」という「自認」のギャップに苦しんでいるのではないだろうか:

1993年、プリンスはワーナー・ブラザーズと再契約を交わす。アルバム6枚分の長期契約であった。その契約金は、当時の音楽史上最高額となった1億ドル。さらにワーナー・ブラザーズの副社長の座につき、アルバム発表ごとに、200万ドルの報酬金を受取るという破格の条件であった。しかしプリンスにとっては、今まで以上に作品に規制が掛かり、自分が望むような自由な活動が出来ない事に不満が溜まり、お互いの信頼関係が崩れ始める。同年、独自レーベルのペイズリー・パーク・レコードが、プリンス以外のアーティストのセールス低迷などを理由に閉鎖。それと同時にインディーズレーベルとしてNPGレコードを設立する。

その後、ワーナー・ブラザーズとの契約消化の為にハイペースでアルバムを発表し続ける事になる。

その際にプリンスはその名を捨てる。1994年発売のComeにおいて「プリンスの死」を宣言し(この際のアーティスト表記は正確にはPrince 1958 - 1993である)、1992年のアルバムのタイトルであるシンボル ⚩ を自らの名とした。このシンボルは、男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽を象徴すると推測されているラッパを思わせる記号をくみあわせたもので、錬金術の記号にルーツを持つという。しかしプリンスはこのシンボルに対しての読み方を特に決めなかったため、彼の名前を音声で伝えることが不可能になった。結局ラジオDJなどはシンボルマークを指して、「元プリンス」(the Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンスと呼ばれたアーティスト、かつてプリンスとして知られたアーティスト)と呼んだ。さらに略して単に「ジ・アーティスト」(The Artist)とも呼ばれ、プリンス側もまたジ・アーティストと呼ぶのが通例だった。

自認と他認のフィードバック(相互作用)について、女装家で性社会史研究者の三橋順子氏は次のように書いている:

例えば、女性グループに混じって温泉に行こうという話になったとき、日程の相談の中で、「私そこはちょっと」「もう終わってると思うけど」などという会話が始まりました。「ああ、生理のことか」と思い至り、下を向いておとなしくしていたら、幹事役の女性が「順子さんはだい......」と言いかけて「あっ、ごめん、忘れてたわ」と付け足しました。話の流れの中で、私が身体的に女性でないことを忘れて、「順子さんは大丈夫?」と聞きかけて、途中で気が付いた「女」錯覚です。

中には、こうした「女」錯覚を、あえて修正しないで、そのまま飲み込んでしまう人もいます。「あたしにとって、順子さんは女、だから一緒にお風呂に入っても平気」と言って実際に入ってくれた女性や、「俺にとってはお前は女、だから(ヘテロの俺が)セックスできる」という男性たちのような人です。

このように私に対して「女」認識を明確にもってくれていることは、性自認が大きく女性に傾いている私にとっては、とてもありがたいのですが、その反面、こちらとしてもそれを裏切るような言動、たとえば男姿を見せるとか、ことさら男らしく振る舞うとかはできなくなります。つまり、他者の性別認識(性他認)が、こんどは私のジェンダーに縛りをかけてくるわけです。具体的には、どんなに忙しくても、お化粧しなければ出掛けられない、ちゃんと「女」しなければ人に会えないという状況が生じてきます。

よく「男性と女性を自由に行き来できて、楽しいでしょう」と言われますが、実際にはなかなかそういうわけにはいきません。他者(社会)が私に求める性別認識(それは元をただせば、私が作り出したものなのですが)に合わせることが、円滑な社会関係を作るためには必要なのです。先にも述べたような、性自認と性他認のフィードバック(相互作用)という現象がここにも見られるのです。

女装と日本人 (講談社現代新書) pp.296-

このような自認と他認のフィードバック(相互作用)は、性別越境者(transgender)の性同一性(gender identity)に限らない。誰もが経験していることだろう。我々は成長を通じて自己同一性(identity)を形成し、その自認にもとづいて生活する。その生活を共にする周囲の人々は他認を形成する。その他認を壊さない振る舞いを、周囲の人々は要求してくる。それにより自認は一層強化される。自認と他認の相互作用で、同一性は強化され続ける。

匿名というラスト・リゾート

こうしていったん強固な同一性ができてしまうと、それが窮屈になっても、なかなか逃れられない。社会的地位のある人は、自ら作り上げた他認によって自らを縛っているから、エキセントリックな趣味(※)のための「会員制高級秘密クラブ」なる商売が成立するのだろう。社会的な同一性を破壊せずにエキセントリックな欲望を満たすためには、「会員制」で「秘密」の場所が必要なのだ。
※エキセントリック:差別的表現としては「変態趣味」だが、ここでは「社会的にあまり容認されていない趣味」という意図。

ソーシャルウェブの進歩によって世界が透明になればなるほど、我々は他者(社会)から要求される同一性を束縛だと感じるのではないだろうか。もちろん、「束縛」であると同時に「生き甲斐」でもあるから、逃れられない。

この葛藤に引き裂かれそうなとき、ウェブ上で別の同一性を得ることは救いになるかもしれない。すでに匿名IDでの活動を通じて気晴らしをしている人など無数にいることだろう。いわゆる「ネカマ」は代表例だ。それは「実名の同一性他認」とは異なる「もう一つの自分」でいるための方法であり、「会員制秘密クラブ」の機能等価物なのだ。

ソーシャルウェブだ、実名化だ、といったところで、ウェブのすべてが実名空間になることはないだろう。人はそれほど強くない。ある集団(例えば職場や取引先)には同定(identify)されたくないが、ほかの集団(例えばウェブ上の趣味のサークル)には同定されたいプライベートな領分があると思う。そういう領分(プライバシー)を確保したい人にとって、ウェブの匿名性はやさしい。「ウェブの全面実名化」には反対だ。

〔註:本来ここでアイデンティティとあわせてコミュニティとプライバシーの関係についても語らなければならない。私はそれを「コミュニティーアイデンティティープライバシー三位一体論」と呼んでいるが、稿を改めたい。なお2011年6月11日に簡単な図解を描いた。〕

企業の完璧さ(integrity)

冒頭で紹介した「SIPSモデル」を念頭に、個人と企業の関係についても考察しておきたい。「SIPSモデル」の解説文には、「企業は常に透明性を保ち、不正やウソのない誠意あるコミュニケーションを生活者としていかなければならない」と書かれている。とはいえ、人は完璧な存在ではない。魔が差すこともある。たった一度、魔が差した人は、もう二度とやり直せないのだろうか。それでは〈無情社会〉だ。

相田みつをは「にんげんだもの」と言った。我々は不完全な人間であることを自他共に認めた方が〈生きやすい〉。暴力的な確認・同定(identify)を通じた一貫性・誠実さ(integrity)の要求は、ほどほどにしておいたほうがいい。企業も人間が集まって出来ている以上、間違えはある。仕方のないことだ。

「SIPSモデル」提唱者の佐藤尚之氏も同様の考えのようだ。USTREAM上の第1回Looops.TV(2011/02/01)にて次のように語っている:
※動画00:50:40以降を書き起こし、読みやすく編集した。言葉を補った部分もあるため、発言通りではない。正確な発言については動画を視聴して頂きたい。

佐藤尚之:企業が欠点を持っていても、少し「許す」感じが出てきていると思う。昔は「企業は完全であるべきだ」という考えがあり、企業も「我々は完全だぞ」と肩肘張っていた。しかし、今は「企業も人だからね」「いいんじゃないの」「でも、ちゃんとそこは直そうね」という気分になってきている。ということは、問題があっても我々の目の前でふつうに直してくれればよい。(...)いまの生活者は怒らない。それどころか身近に感じてくれたり、共感したりしてくれて、意見を聞いたり一緒に直したりしているうちに、ファンになってくれたりする。

斎藤徹:そこが非常に重要で、そこに気づかないから企業はソーシャルメディアを怖がる。人と人とのつきあいって、そんなに完全ではない。

佐藤尚之:みんな欠点だらけ。そこを認めたり、一部を好きになったりして十分に付き合える。

玉置沙由里:失敗を隠すよりも、むしろ出した方が良い。

佐藤尚之:というよりも、「失敗」ではない。「ミス」があるのはべつに普通のこと。

ミスは許されるが、誠実さ(integrity)に欠ける謝罪・対応は許されない。あるいは、誠実に謝罪・対応する限り、ミスは許されるとも言える。ケン・ブランチャードらは『一分間謝罪法』の中で語っている:

〈一分間謝罪法〉は、降伏することからはじまり、誠実であることで終わる。

あなたが態度をあらためないかぎり、ただ「すみません」というだけでは十分ではない。

迷惑をかけてしまった人にあやまるには、自分がミスを犯した、それを申しわけなく思っている、これからは態度をあらためる、その三つを伝えることが最良の方法だ。

〈一分間謝罪法〉は、あなたが犯した誤りを正し、よい関係に必要な信頼を回復するうえで、効果的な手段である。

ケン・ブランチャード&マーグレット・マクブライド『あなたを危機から救う一分間謝罪法

たとえ失敗しても、誠実な謝罪と対応によって、もう一度チャンスが与えられる。そういう成熟した社会になることも十分に可能だろうし、すでにそうなりつつあるようにも見える。ソーシャルウェブ時代が〈生きやすい社会〉になるか、〈無情社会〉になるか、その分水嶺に我々は立っているのだ。

24時間「企業人」でいられるか

次に、企業に所属する個々人(企業人)について考察する。我々の多く(とくに生産年齢人口の人々)は、消費者であると同時に生産者だ。受益者であると同時に提供者だ。企業に過度の同一性(identity)を求める前に、自分がそこまで同一性を要求されたいか、と考えてみよう。その要求は、巡り巡って自分に返ってくるのだから。

例えば、何らかの問題で糾弾されている企業があるとしよう。社長が謝罪会見を開いてテレビで報道されている状況を想像して欲しい。その企業の社員が休暇中に気楽なツイートをしていたら、批判する人もいるだろう。「休暇を取っている場合ではない。休日返上で対応すべきだ」といった具合に。

これは企業人に24時間「企業人」でいることを要求する確認・同定(identify)行為であり、場合によっては「やり過ぎ」になる。もちろん、人命がかかっていたり、一刻一秒を争う局面なら別だが。仮に自分が同じ立場だったとして、24時間「企業人」でいられるだろうか? この問いに「はい」と答える「強い」人もいるかもしれないが、多くの人は違うはずだ。だから、そこまで深刻でない事例については、「お互い様」の精神で多少は目をつぶるくらいの余裕が欲しい。

とはいえ、休暇中のツイートが目に付いてしまったら、不快に思うかもしれない。それはそれで自然な反応であり、仕方のないことだ。だから、当該企業の社員は「休みを取るな」と言われる筋合いは無い(場合もある)かもしれないが、「休みを取っていることを実名でツイートするな」と言われれば謙虚に受け止めるしかないだろう。余計なツイートのせいで、人を不快にさせたり、自社が批判(炎上)に晒されるかもしれないのだから。

どうしてもツイートしたければ、匿名の別アカウントを作ればいい。アイデンティティを上手に使い分ければ、人を不快にせずに、自分のプライベートな領分を守ることもできる。両立するのだ。このリテラシーが、ソーシャルウェブ時代には必要だろう。

ソーシャルウェブ上で実名と所属企業を明かす人は増えている。実名ソーシャルウェブ時代の前にはありえなかった、新しい問題が起こりつつあるのだ。我々は新たなリテラシーを獲得する必要があるだろう。

有名人と〈無情社会〉

次に「有名人」について考察したい。ソーシャルウェブ時代、自分の得意分野で「プチ有名人」になる機会は誰にでも開かれている。我々は誰でも、才能を発揮することで「有名人」になり得る。したがって、ここで述べることは誰にとっても他人事ではないだろう。

有名人相手に心ない罵声を投げかける人がいる。そういう人は、「有名人は一方的に批判しても構わない存在だ」とでも思っているのだろうか。そのような社会では「あまり有名にならないほうが得だ」と考える人も多いだろう。政治家のなり手も少なくなるから、有能な政治家も少ないだろう。有名人に罵倒を浴びせる人は、巡り巡って不利益を被っているのだ。社会的に有益な才能の「機会損失」という形で。

有名人は、知名度・名声という「資産」と、いわゆる「有名税」のような「負債」を抱えている。有能な人が活躍して社会貢献するのは、その「資産」が活用されることに他ならない。同じ「良いこと」を言うにしても、有名人が言えば、よりよく広まる。有名人が発言力などの「資産」を活用するとき、無名の人より大きな社会貢献が可能になる。

だが、ネガティブな他認(負債)が積み重なり、「資産」より「負債」の多い「債務超過」に陥ったとき、そんな同一性は重荷でしかなくなる。もはや投げ出して「自己破産」したくなる。そうなっては、せっかくの「資産」も活用されることはない。社会的損失だ。

活躍しているのに突然一線を退く有名人がいる。菅直人首相は「総理が辞める理由がわかった」「気持ちが萎えるんです」と語った。水嶋ヒロ(本名:齋藤智裕)氏は「執筆活動に専念するため」突然に芸能事務所を退社した。自認と他認のギャップ、プライベートの行動まで徹底的に同定(identify)される苦痛。有名人の同一性は常に「債務超過」への転落と背中合わせだ。

有名人にとってウェブの技術進歩による同定(identify)可能性の向上(崎村氏の言う「ジャヴェル化」)は深刻だ。誰でも才能を開花させることで「プチ有名人」になれる時代なのに、〈無情社会〉においては「あえて才能を活かさず無名に留まろうとする人」が出てくるだろう。これは社会的損失に他ならない。

能ある鷹が爪を隠す社会と、有能な人が活躍できる社会、どちらがよいだろうか? 後者がよければ、我々は有名人を一方的に罵倒してはならない。自分が言われたら嫌なことは言わない。自分がされたら嫌なこと(例えばプライベートの暴露)はしない。相手も自分と同じ「人間」だと認識し、尊重するならば、当たり前の行動だ。べつに難しいことではない。

相手が有名人でも、次に紹介するような「プライベートの暴露(プライバシーの侵害)」をしてはならない:(※註:必要な部分だけ抽出・引用した)

若林「...でもね、(ダブルネームの)ジョーが俺と飯を食ったこととか、スゲェ書くのよ」

若林「だけど、全部言っちゃうと、俺はこういう人間だから...先輩とかの飯の誘いをウソついて断ってることがあるわけですよ」

若林「それだし、俺の承諾を得てないのよ。『書いても良いけど、一応、訊いて』って言ってあるんだけど、全然言わないし、書いちゃうのよ」

オードリー若林が語る「Twitterによる弊害」 | 世界は数字で出来ている

これはプライバシーの侵害だ。したがって、次の考え方は自責的すぎるのではないだろうか:

若林「もう、Twitter書くことが当たり前になってきてるからね。それを前提に考えないとダメだね。良いんだけどね。こっちが覚悟すれば良いだけだからね」と語っていた。

(前掲ウェブページ)

そんな覚悟のもとで人々が行動しなければならない社会は、あまりにも〈生きづらい〉。つねに「パパラッチ」に囲まれているつもりで生きなければならないなんて。だから、ここで問題なのは「許可を得ずに他者の行動を報道(ツイート)すること」つまりプライバシー侵害行為なのだ。

仮に悪意が無いとしても、無知によるプライバシー侵害は起こりうる。その予防策として、例えば「他人の行動を勝手に報道してはいけません」といったソーシャルウェブのリテラシー教育が必要ではないだろうか。ここでも、「それがなぜいけないことなのか」への答えは、「自分がされたら困るでしょう」という「お互い様」の原理だ。

「お互い様」の精神で〈生きやすい社会〉へ

「SIPSモデル」はソーシャルウェブ時代の生活者消費行動をきれいにモデル化した。そこでモデル化された「生活者消費行動」は、自然現象ではない。我々の行動が成すパターンでしかない。この「確認(Identify)」という行動パターンは、果たして「お互いを徹底的に確認・同定(identify)し尽くす殺伐とした〈無情社会〉」に帰結するだろうか。それとも、「お互いの身になって(identify with)物事を考えられる〈生きやすい社会〉」に帰結するだろうか。それは分水嶺に立つ我々にかかっている。

徹底的な確認・同定・名寄せ(identify)が容易なソーシャルウェブ時代に、人々が身につけるべきエートス(態度・習慣)とは何だろうか。私は、その中心に「お互い様」の精神を位置づけたい。それが明日の〈生きやすい社会〉を作るはずだ。

もちろん制度設計も重要だ。しかし、どんなに工夫して制度設計したところで、結局は人々のエートス次第でどんな社会にでもなりうる。日本の夜道が安全なのは、犯罪を防止する制度設計だけで実現されたわけではないだろう。犯罪を犯したくても犯せない環境を実現しようと思ったら、どれほどの金と自由が犠牲になるだろうか。自由を奪って完全に安全な制度を実現することは、望ましくもなければ、効率的ですらない。

同じ事がウェブ上の言論についても言える。ウェブに言論の自由がある限り、およそ考え得るどんな制度でも〈無情社会〉は可能だ。その逆で、人々に「ソーシャルウェブのエートス」があれば、最小限の制度・制約・費用で済むだろう。再び崎村氏の文章を引用する:

無情社会を産まないためには,必要に応じてすべての事実を明らかにし,名誉回復する手段を備えなければならない。現在のインターネットはこれを欠いている。

こうした名誉回復の手段や,名寄せの被害を抑える仕組みなどは,技術的手段だけでは実現できないし,制度的な手段や,人々の教育を通じた社会的な手段だけでも実現できない。技術・制度・教育がそれぞれ手を携えて,バランスよく進めることのみで実現できる。そうすることによってのみ,皆が安心して便利に使える環境が手に入るのである。

無情社会と番号制度~ビクトル・ユーゴー「ああ無情」に見る名寄せの危険性

この論文では技術的手段・制度的手段ではなく、「人々の教育を通じた社会的な手段」に絞って議論してきた。

この文章は「ソーシャルウェブのエートス」を議論する出発点に過ぎない。まずは「ソーシャルウェブのエートス」について議論する機運が高まって欲しい。そして「ソーシャルウェブのエートス」の具体的内容に関する議論につながって欲しい。十分な議論を経て合意が形成されれば、義務教育で「ソーシャルウェブのエートス」を教えよう、といった議論もありうる。そこまでには慎重な議論が必要だ。決して拙速になることなく、じっくりと時間をかけて「ソーシャルウェブのエートス」をみんなで議論していきたい。

〔今後の展望:community-identity-privacy三位一体論もいずれ論文にしたい。匿名性(anonymity)についても〈実名〉と〈匿名〉という対置は適切かと問い、community-identity-privacy三位一体論をふまえて論じたい。(2011年7月21日追記)〕